コンクールに見るスパルタ式音楽教育。

孫のRちゃんは、ピアノも習っている。
そして、ちょっと某コンクールに参加してきた。


まあ、参加した、とは言いましても、前から言っているとおり、ちょっとぶきっちょで基礎的筋力が足りてないので、テクニック的にどうしても脆弱なところがあり、ミスタッチが出てしまって入賞はできませんでしたけども。

でも、審査委員長はかなり慧眼の持ち主だったらしい。
ウチでは、あまり厳しく超絶スパルタで完璧に弾けぇっ!! ……というような指導はしていなくて、音楽っていうのはそもそも、楽しいもの、感動するもの、心に沁みるもの、だからやるモノだ、という位置づけ・スタンスでやってます。


入賞は逃したものの、そこら辺は、見る人が見るとちゃんと伝わるんですね。
ミスタッチで入賞はできなかったけども、音楽的な面では、すさまじくお褒めの言葉をいただくことができた。

ちゃんと、分かる人にはわかるんですね。


しかし、問題は(?)他の参加者の子たちでした。
娘(ママ)が言うには、ものすごく、凄まじく厳しいピアノの先生が来ていたらしいんです。
その先生の生徒が、何人か参加していた。

ところが、その先生というのが、見た目は綺麗系なんだけども、とにかくとんでもなくキツくて、厳しいというか、何というか。
まず、「誰か一人でも入賞しなよ!」的なことを子どもたちに言っていたという。
いや、まだ小さな子どもたちですよ?
入賞する、しないは、本人の責任というよりは、指導者(先生)や親の責任なんじゃないの。

だからこそなおさら、なのでしょうか。
その先生についている親すらも、その先生と同じスタンスで子どもに接していて、本番でついつい、弾き損じて弾き直ししてしまった子がいたんですね。
そしたら、その母親が、もう般若のような形相でその子を睨みつけていたのだそうです。
たぶん、会場を後にしてから、猛烈な勢いで怒られたに違いありません。
可哀そうすぎる……

いや、それでうまくなるんなら、それでもいいですけど。
恐らく、100%、うまくならないでしょう。

むしろ、委縮しちゃって、恐怖におびえて、ますます、ピアノが嫌いになるに違いない。
ピアノは恐怖の対象でしか、なくなる。

完全に、親も先生に洗脳されて、先生のやり方・指導法に感化されて、それで子どもに接してしまっている。


娘(ママ)が言うには、その先生の生徒の子たちは、お辞儀の仕方にかなり独特の特徴があって、まるでオペラ歌手か? ってな感じの、妙に気取った変な頭の下げ方をしていたらしい。
他の子は、ただ普通に礼をするだけなのに。

娘(ママ)としては、その礼の仕方も鼻持ちならなくて気に入らなかったらしいけども。

その先生の生徒たちの演奏は、ワタシも聴きましたが、たしかに立派に、間違えず完璧に弾いてはいるのです。
でも、面白くもなんともない。
つまらない。
感動しない。
魅了されない。

そんなもの、音楽と呼べませんよね。

審査委員も、その辺は当然ながらよく分かるらしく、その先生の生徒は一人も入賞していなかったそうです。

公正な審査で、良かった……

でも今ごろ、そのピアノの先生は、一人も入賞しなかったのはすべて、生徒の子たちが不甲斐ないせいだ、お前たちがだらしないから、こんな残念な結果になったんだ! 反省しろっ!! とばかりに、子どもを猛烈に責めていることでしょう。

いや、違うから。
お前の指導法が、根本的に間違ってるせいだから。
親も、そんなバカ先生に感化されてないで、もっと真実に気づけよ。


結局、完璧に間違えず弾け! というスパルタ指導の下では、そうやってミスする子が出てしまうし、審査委員にもアピールするものが何もない、無味乾燥でつまらない、ありきたりの誰でもできる、棒読み演奏しか、できないのだ。

それに、まったく気づいていない。
自分のやり方が、絶対的に正しいのだ、と信じて疑っていないのですね。
馬鹿すぎますね。

娘(ママ)が言うには、その先生の生徒たちはみんな、ネガティブでびくびくおびえていて、とても音楽をするような雰囲気ではなかった、とのことです。


完璧に、間違っていると、ワタシなんかは思う。
そもそも、音楽はコンクールのためにあるワケでもなんでもありません。
コンクールというものがこの世からなくたったとしても、音楽だけは、あり続けるのです。

これは、漢字とか数学が、テストのためにあるワケでも何でもない、というのとまったく同じ。

テストなんていうものがなくなたって、漢字も数学も、この世にはあり続けるし、有効性には何の毀損もないのです。


音楽の本質は、結局は、聴く人に楽しんでもらう、ってのがその存在意義であって。
別に、コンクールで入賞することが、音楽の存在意義でもなんでもない。

そんなものは付随した、ついでみたいなものであって、音楽の本質、存在意義とは、まったく無関係。

ただ、「コンクール入賞!」っていう肩書が必要とされる場面があるとするならば、それはやっぱり客を集めるための権威づけですよね。
コンサートを開く、あるいは教室を開く、というときに、お客さんをどれだけ集められるか? っていうのが懸かっている場面で、○○コンクール優勝! とかいう華々しい肩書があれば、それにつられて寄ってくるお客さんが何人かはいるでしょう。
そのため、ということなら、それなりに意味があるのかもしれない。

しかし。

何々コンクールで優勝しました、とか、そんなような仰々しい肩書を持っていたとしても、実際の演奏がつまらなかったら、コンサートにお客さんは来ません。
だって、チャイコフスキーコンクールだとか、何だとか、毎年開かれているんでしょう?
でも、その優勝者が日本で有名になることなんて、ほとんどないじゃないですか。
あ、辻井伸行がいましたね。
でも、彼くらいなもの。
他にも、毎年毎年、優勝者、入賞者は出ているハズなのに、誰も有名にはならない。

生徒を集めるにしても、肩書に惹かれて集まってきたとしても、実際に人を指導する技量が欠けていれば、人は離れていく。

逆に、いかなるコンクールにも入賞したことがなく、そんな肩書は何もない、としても、演奏が面白くて魅力的であれば、おのずと人は集まるでしょう。


音楽の本質と、コンクールは、直接的につながってはいないのです。
ただ、マーケティングの際に箔が付く、というか、対外的にアピールできる宣伝文句に使える、という程度のもの。


そんなもののために、子どもを恐怖で支配して、完璧に間違わずに弾くことを強要し、それができなかったら般若のごとき形相で烈火のごとく怒る。
子どもは、恐怖から逃れるために仕方なく、いやいや、しぶしぶピアノに向かう。

そんなんで、その子どもが、聴衆を楽しませる、感動させる、心にジンと来る、そんな演奏が出来る奏者に育つのでしょうか???

育つハズも、ありゃしません。

しかし、それでも、まだまだ、そんな強権的な、恐怖支配のおよそ非音楽的な、変なスパルタ音楽教育がはびこって、それを支持して洗脳されている親がいて、そんな親と教師の下で無理やり強制的にピアノを弾かされている子どもがいて、そんな子どもたちが、実際にはクソ面白くもないつまらない演奏を繰り広げ、そしてコンクールではことごとく落選させられている、という現実は、今でも根強く残っているのを垣間見たのであった。



実に嘆かわしい現実である。




孫のRちゃんは、今回の失敗を教訓にして、さっそく、完璧に弾くにはどうすればいいか、ワタシのレッスンを受けて、ものすごくやる気になっている。
これだけでも、今回、コンクールで入賞を逃したのは、いい経験だったと言える。
すべて、無駄な経験などというものはない。

コンクールで入賞できなかった。
恐らく、上で述べた強権的な先生なら、それは自殺ものの大失敗で、極大叱責ものの大不祥事なんだろう。

でもそれは明らかに間違い過ぎ。
あらゆる失敗、不成功は、次につなげるための教訓である。

今回はうまく行かなかった、それならば、次にどうすればよいのか?
それを考え、粛々と実行に移す。

ただ、それだけである。
子どもには何の責任もない。
指導者たる先生、そして親等(祖父母含む)の対応の仕方を考えるべき案件であって、子どもの責任にしている場合ではない。

子どもの責任にして逃げる、というのは、ずるくて卑怯極まりない、大人のエゴである。
そういうの、この世から撲滅した方がいいよ。

いやいや、マジで。



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ばっかバッハ

Author:ばっかバッハ
ヴァイオリンを習い始めたのは16歳くらい。
それから30年以上の歳月が流れ…今ではアラフィフ。
年齢とともに楽器を弾くのが辛くなってきたので、ゲームで遊ぶことも。

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