ヴィオラ向きの性格?
休まず練習、ということで今日も練習。
無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番ハ長調、第3楽章ラルゴは、そう難しい曲ではないものの、弾くたびに左手指が痛い。
やはりそれなりに、テクニック的にツラい曲なのだと思われる。
初めて譜読みしたときは、とても弾けそうもなくて挫折してたし……
が、毎日さらっていれば、そのうち弾けるようになってくるだろう。
そして、いつも問題のヴィオラ。
昨日練習して、今日も練習して、休んでないハズなんだけども、最初にボーイングから始めてみると、どうもまた音が出にくい。
またしても、頑張って音を出すことに努める。
ひたすら、何度もボーイングを、各弦上で繰り返す。
音の出始めで、ガッ、と弦に食い込んで、それから粘りつくように弓を引いていく。
だんだんと、音を出す感覚が戻ってくる……
どうも、まだまだ、最初の一音からバンバン音が出る、というレベルには達していないようで、毎日毎日、ボーイングをするのが必須のようで。
そうして必死こいてどうにか「いい音」が出るようになってから、曲に入る、という。
曲はテレマンの協奏曲を1楽章と2楽章、それからバッハの無伴奏チェロ組曲第1番をクーラントまで。
今日はそこでヘトヘトになってしまった。
とにかく、「音を出す」弾き方は疲れる。
そこで思い出したのだが、もうずいぶんと昔、次のような言葉を読んだことがある。
ヴィオラで大きな音を出すには、特別な才能が必要とされる。
これは、欧米人の誰か高名なヴァイオリン教師か誰かが書いていたのだったと思うが、誰だったか全く覚えていなし、どこで読んだのかも、覚えていない。
ただ、その言葉だけは、強烈に記憶に残った。
ヴィオラで大きな音を出すためには、特別な才能がなきゃいけないのか……?
「才能」だとしたら、才能がなかった人は、一生大きな音を出せないで終わるのか。
どうなのか。
そんなような悩みを、ずっと持っていた。
そして最近、「大きな音」を必死になって出すように頑張ってみて思ったのだが。
ヴィオラで大きないい音を出せるか、どうか、というのは、どうも性格と密接に関わっているのではないか、と。
ヴィオラで大きな音を出せる人、というのは、ぼくが個人的に勝手に考えるに、
自分に自信があって
人前でもハッキリと明瞭に言葉を発することができて
自分の意見や考え、感情などを十分に言える
そういう人なのではないか、と思ったのである。
ちなみにぼくは全くの正反対で、
自分に自信がなく
人前で言葉を明瞭に発音できず
自分の意見や考え、感情を言葉に出すことがなかなかできない
という人物なので、これが、ヴィオラで音を出しづらいことの根本原因なんじゃないか、と思えてきたのだった。
だから、ちょっと練習を休んだだけですぐにまた「音を出せない」自分に逆戻りするし、練習を休まなくても、やっぱり音を出すのはしんどい。
これが、性格が最初からヴィオラ向きの人は、ぼくほど頑張らなくても、すいすいと余裕で音をバンバン出せるんじゃなかろうか。
ぼくは、もともとの性格がヴィオラ向きじゃないから、音を出すのにたいへんな苦労を強いられるのではないか。
そう、思えてきたんですね。
上記で述べた、特別な才能、というのは、とりもなおさず、この生まれつきの性格のことを指していたのではないか。
性格というのは、案外、生まれつき備わったもので、なかなか努力程度で変わるものではない。
恐らく、一生変わらないものなのだと思う。
それでも、ぼくはやっぱりヴィオラで「いい音」を出したいので、チャレンジはやめない。
たとえ、一生努力し続けるとしても、別にそれでいい。
死ぬまで、ヴィオラを弾き続け、いい音を出すべく頑張り続ける。
なぜか。
別に、何かを達成するために練習しているワケではなくて、ただ単に、こうして楽器を弾いて音を出しているだけで楽しいからである。
べつに、何かの目標に到達するために苦しくて嫌なことを我慢してやっているワケでも、なんでもない。
日々、楽器を触って音を出して遊ぶことが、至上の楽しみであり、唯一の娯楽だから、練習するのである。
だから、本当は「練習」などしていないのである。
「練習」という言葉が、良くない。
ぼくは、ただ単に楽器で遊んでいるだけなのである。
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無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番ハ長調、第3楽章ラルゴは、そう難しい曲ではないものの、弾くたびに左手指が痛い。
やはりそれなりに、テクニック的にツラい曲なのだと思われる。
初めて譜読みしたときは、とても弾けそうもなくて挫折してたし……
が、毎日さらっていれば、そのうち弾けるようになってくるだろう。
そして、いつも問題のヴィオラ。
昨日練習して、今日も練習して、休んでないハズなんだけども、最初にボーイングから始めてみると、どうもまた音が出にくい。
またしても、頑張って音を出すことに努める。
ひたすら、何度もボーイングを、各弦上で繰り返す。
音の出始めで、ガッ、と弦に食い込んで、それから粘りつくように弓を引いていく。
だんだんと、音を出す感覚が戻ってくる……
どうも、まだまだ、最初の一音からバンバン音が出る、というレベルには達していないようで、毎日毎日、ボーイングをするのが必須のようで。
そうして必死こいてどうにか「いい音」が出るようになってから、曲に入る、という。
曲はテレマンの協奏曲を1楽章と2楽章、それからバッハの無伴奏チェロ組曲第1番をクーラントまで。
今日はそこでヘトヘトになってしまった。
とにかく、「音を出す」弾き方は疲れる。
そこで思い出したのだが、もうずいぶんと昔、次のような言葉を読んだことがある。
ヴィオラで大きな音を出すには、特別な才能が必要とされる。
これは、欧米人の誰か高名なヴァイオリン教師か誰かが書いていたのだったと思うが、誰だったか全く覚えていなし、どこで読んだのかも、覚えていない。
ただ、その言葉だけは、強烈に記憶に残った。
ヴィオラで大きな音を出すためには、特別な才能がなきゃいけないのか……?
「才能」だとしたら、才能がなかった人は、一生大きな音を出せないで終わるのか。
どうなのか。
そんなような悩みを、ずっと持っていた。
そして最近、「大きな音」を必死になって出すように頑張ってみて思ったのだが。
ヴィオラで大きないい音を出せるか、どうか、というのは、どうも性格と密接に関わっているのではないか、と。
ヴィオラで大きな音を出せる人、というのは、ぼくが個人的に勝手に考えるに、
自分に自信があって
人前でもハッキリと明瞭に言葉を発することができて
自分の意見や考え、感情などを十分に言える
そういう人なのではないか、と思ったのである。
ちなみにぼくは全くの正反対で、
自分に自信がなく
人前で言葉を明瞭に発音できず
自分の意見や考え、感情を言葉に出すことがなかなかできない
という人物なので、これが、ヴィオラで音を出しづらいことの根本原因なんじゃないか、と思えてきたのだった。
だから、ちょっと練習を休んだだけですぐにまた「音を出せない」自分に逆戻りするし、練習を休まなくても、やっぱり音を出すのはしんどい。
これが、性格が最初からヴィオラ向きの人は、ぼくほど頑張らなくても、すいすいと余裕で音をバンバン出せるんじゃなかろうか。
ぼくは、もともとの性格がヴィオラ向きじゃないから、音を出すのにたいへんな苦労を強いられるのではないか。
そう、思えてきたんですね。
上記で述べた、特別な才能、というのは、とりもなおさず、この生まれつきの性格のことを指していたのではないか。
性格というのは、案外、生まれつき備わったもので、なかなか努力程度で変わるものではない。
恐らく、一生変わらないものなのだと思う。
それでも、ぼくはやっぱりヴィオラで「いい音」を出したいので、チャレンジはやめない。
たとえ、一生努力し続けるとしても、別にそれでいい。
死ぬまで、ヴィオラを弾き続け、いい音を出すべく頑張り続ける。
なぜか。
別に、何かを達成するために練習しているワケではなくて、ただ単に、こうして楽器を弾いて音を出しているだけで楽しいからである。
べつに、何かの目標に到達するために苦しくて嫌なことを我慢してやっているワケでも、なんでもない。
日々、楽器を触って音を出して遊ぶことが、至上の楽しみであり、唯一の娯楽だから、練習するのである。
だから、本当は「練習」などしていないのである。
「練習」という言葉が、良くない。
ぼくは、ただ単に楽器で遊んでいるだけなのである。
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