ウォレス社長は有罪か?

え~、性懲りもなく。
またしても『ブレードランナー2049』の話です。


今回もネタバレ含む恐れ大なので、これから観ようかな? と考えている人は引き返した方が無難かと。






さて、ウォレス社長が有罪か?
というテーマなのですが、これは、部下のラヴさんが人間を何人か殺害している、という事実から、その罪がウォレス社長にまで及ぶのかどうか?
ということです。


ラヴさんは、レイチェルの遺骨を盗み出すために、監察医だか検死官だかのココを殺害します。
この後の場面で、Kの上司のジョシ(ダジャレなの?)が「ココが殺された」と話す直前、なぜか殺害現場の死体安置所(?)とは関係ない廊下に血しぶきが飛んでいて、それを掃除している様子が映ります。

つまり、ラヴさんはココだけじゃなく、警察署内の道すがら、見とがめられた警察職員を何人か殺害していたっぽいんですね。
侵入するときか、脱出するときか、どちらかは不明ですが(恐らく、脱出するときじゃないでしょうか)。

さらにもっと後のシーンでは、Kの上司のジョシを刺殺してしまいます。

少なくとも、3人以上は殺しています。


ラヴさんはあくまでウォレス社長の部下ですから、ウォレス社長が殺人教唆などの罪に問われてしまうことはないのでしょうか。



この問題を考える上で、前回述べたような、この世界におけるレプリカントの扱いがどうなっているのか、を考える必要があります。

①レプリカントには人間と同じような自由意思があり、刑事責任能力がある。

②レプリカントはウォレスコーポレーションが製造した製品であり、自由意思はなく刑事責任能力もない。


上記②の場合をまず考えてみるに、製品でしかないとなりますと、製品が人間の身体に害を及ぼした、ということになります。
日本では製造物責任法という法律があるので、これに基づいて「製品の欠陥によって生命,身体又は財産に損害を被ったことを証明した場合に,被害者は製造会社などに対して損害賠償を求めることができる」ということになりそうです。
でも、これだと誰も殺人罪には問えないということにもなりますね。
製品の欠陥により、その製品が人を殺してしまった。
会社(ウォレス社長)は損害賠償責任は負いますが、殺人罪にはなりません。
また、下手人のラヴさんも、彼女はただの製品でしかありませんから、廃棄処分にはなるでしょうけど、殺人罪には問われないでしょう。

なんだか、スッキリしませんが、しかし②の場合は実はなさそうなのです。
なぜなら、ラヴさんがKの上司のジョシを殺害するときに、「私たちは嘘をつかない。ウォレス社長には、あなたが先に撃ったから殺したと伝える」と言っています。
ジョシ殺害を、正当防衛だ、とウォレス社長には報告する、という「嘘」をつくよ、と宣言しつつ、殺しているのですね。

これって、つまりウォレス社長は、ジョシを殺して来い、とは一言も命令していないし、望んでもいない、ということです。
レイチェルの産み落とした子どもの行方を探せ、とは命じられているでしょうけど、その過程で人も殺せ、とは命令されていない。
それを、ラヴさんの勝手な判断、独断で殺すんだ、だからウォレス社長には虚偽の報告をするんだ、ということになる。

これって、明らかにラヴさんはただ命令を忠実に遂行するだけの製品ではない、ということを明示している。
明確に、ただ命令に従うだけではなく、自分の判断で、自分の意思で、行動を決めて実行している、ということですから、自由意思アリ、ゆえに、刑事責任能力もある、と判断できる。


だから、②ではなくて①だ、ということが言える。
Kにしても、生活の様子を見る限り、②というよりは①のような扱いで、人間に準ずる権利は与えられているように見えます。


さて、ではラヴさんが勝手に独断で人を殺した、となった場合、ウォレス社長はどこまで責任を負うのでしょうか?
少なくとも、殺せ、とか命じていない以上、ウォレス社長を殺人教唆などで逮捕・起訴するのは難しそうです。

ただ、ネクサス9型レプリカントが、忠実過ぎるが故に殺人まで起こす、ということが公になれば、また製造禁止、とかいう議論を呼び起こしそうな気はします。


しかし、実はやっかいなことに、当のラヴさんはすでにKによって殺されてしまっているのですね。
海なのか湖なのかよく分かりませんが、スピナーと一緒に波にのまれて水底深く沈んだことでしょう。
そうやすやすと引き上げられるとも思われないし、見つかった頃には遺体の損傷も激しく、何も分からない状態でしょう。
何より、死人に口なし、で自供も得られません。

ロサンゼルス警察本部に侵入して3人以上もの職員を殺害した犯人が誰なのかは、永遠に闇の中になりそうです。
当然、ウォレス社長が罪に問われることもない。


よって、ウォレス社長はどう考えてみても「無罪」と判断するよりほかにないワケですね。


映画観てる限りだと、なんだか悪そうに見えますけど、社長本人を何等かの罪に問うことは不可能そうです。


あとテーマから逸れますが、あそこのロサンゼルス警察本部って、ラヴさんがあっさりと侵入できて、あっさりと何人か殺して、やすやすと脱出できてしまうような、そんなザルセキュリティなんでしょうか?

入るときにチェックとかないのかな。
Kがサッパー解任から帰還したときには、けっこうたくさんの警察署員が歩いていて、Kに「スキンジョブ!」とか差別用語を浴びせていましたけども。

案外、あの世界は荒廃してますから、税収も低くて、あまり警察署にも予算が回ってこないのかもしれませんね。
セキュリティも甘くなっちゃっているけど、現実的にどうすることもできない、という苦しい台所事情が、あんなところに現れているのかもしれません(絶対、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はそこまで考えていない(笑))。



まあ、こうやって、いろいろと勝手に妄想を膨らませることができるところが、あの映画のいいところです。
これは、ゲームのウィザードリィに似ている。



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ブレードランナー2049また観てきた。

※注:めちゃくちゃ大長文

え~と、『ブレードランナー2049』ですが。
今日、また観てきた。


結論から言うと、二回観てもなお、面白かった……

前回は吹き替えで、今回は字幕で観たのだけれど。
字幕の方が、圧倒的に分かりやすかったな。

吹き替えは、どうも訳語が不適切な箇所が多い(ように感じられる)みたいで、セリフを聞いても何だかよく分からなかったり、意味を取り違えてしまったりしていた場面がいくつかあった。

字幕の方が、文字で画面に書いてあるのに加え、訳語がより適切で、意味がよく分かった。
あまりセリフ自体、多くないし。


そんなこんなで、改めて観返してみて、どうだったか。


※注:ここから先、ネタバレ含むので、これから観ようと考えている人は引き返した方が無難かと。






ビジュアルが綺麗、ってのは相変わらずで。
ストーリーの方も、改めて観てみると、意外にいいんじゃないでしょうか。

不可能なハズの、レプリカントによる妊娠が発覚、子どもはどこへ消えたのか……?
っていう、謎を追っていくミステリー仕立てになっているあたり、なかなか緊迫感ありました。

しかも、その子どもはもしかしたら自分!? って思ったKが、あっさりと違ってた、っていうあのガッカリ感。


やっぱり、ラスト近く、巨大なただの宣伝のジョイちゃんが、ボロボロのKに話しかけてくるシーン。
あの場面は、強烈でした。

道行く通行人、誰にでも同じことを語り掛けているだけのジョイちゃんに「good Joeみたいね」なんて言われて、自分は全然、特別でも何でもない、ただの人(レプリカント?)に過ぎなかったんだ、っていうあの虚無感。

観てるこっちにも、ずしーん、と来ます。
そしてKの脳裏によみがえる、フレイザさんの言葉……「大儀のために死ぬことが、本当に人間らしい」とか何とか。


そして猛然と動き出すK。

やっぱり、自分は無価値だ、と思った後に、何か意味のあること、大きなことをしたくなった、っていう描写ですね、アレは。


でも、Kはフレイザさんに言われた通りに忠実に行動したワケではなくて。
デッカードを殺して、と言われたにも関わらず、殺さなかった。
むしろ、助けて、さらに実の娘に会わせてあげた。


考えてみると、Kには別に、レプリカント解放戦線に参加する意味が、まったくないんですよね。
虐げられ、狩られているのは旧型のネクサス8型だけであって。
新型のネクサス9型なのであろうKは、別に狩られてないしそんなに悪い待遇でもないワケですよ。
差別は受けているようですが、プライベートもあるし、勤務時間以外は割と自由にしている。
普通の人間と、あまり変わらない生活をしています。

奴隷扱いされている風でもない。


そこら辺、あの世界では、どうなっているんでしょうか?


Kを見る限り、普通の人間と同じように、法律の保護下に置かれ、人権が付与されて自由も権利も(義務も)与えられて生活しているように見えます。
エマネーターと称する装置を買ってきて、ジョイを室外に連れ出せるようにしている辺り、けっこう自由に生きている様子。


レプリカントは人間なのか、そうでないのか?
という問題は、一見すると哲学的で答えが出しにくい、難しい問題のように思えてしまいますが、それは違います。
実際は、テクニカルには非常に単純で簡単な問題にすぎなくて。

例えば、日本だったら、日本国憲法に定める「国民」に、レプリカントが含まれるのか、含まれないのか、という点について、法律で明確に規定するかどうか、という一点のみに依拠しています。
アメリカの法律体系についてはよく知りませんので明確なことは言えませんが……合衆国憲法も読んだことないし。。

日本の場合で考えてみると、日本国憲法の第10条には、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とあり、第11条には「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とありますから、例えば「レプリカントの権利に関する法律」とかいうのを新しく作って、そこでレプリカントも日本国民に入りますよ、と規定すれば、その法律が施行された日からレプリカントも日本国民ですから、当然、第11条に基づいて、レプリカントも基本的人権の享有を妨げられないことになります。

民法の第3条には「私権の享有は、出生に始まる」とありますから、レプリカントも出生(製造?)と同時に私権を享有し、権利義務の主体となることができる、ということになる。

そうなれば、もはや人間と変わりありません。

法で定めるか否か、によって、レプリカントが人間なのか、そうでないのか、はテクニカルに一義的に決まるのであって、哲学的に悩む余地は、別にありません。
悩むとすれば、法で定めるまでの間、ですね。

レプリカントに人権を認めるべきか、否か?
というのは、果てしない論争を巻き起こし、国民投票をしても7割は反対、とかいう事態になりそうですけども。
でも一度、レプリカントは国民に含まれる、という法案が国会を通って施行されてしまえば、晴れてレプリカントは人間になります。

逆に言うと、そういう法整備が何もされない間は、レプリカントは人間ではあり得ない。
ウォレスコーポレーションによって「製造」された、ただの「製品」ということでしかない。

だから、劇中でKが割と自由に、普通の人と変わらない生活をしている様子を見る限り、どうもネクサス9型はすでにアメリカ国民として人権を有しているように見える。


ところが一方で、ウォレス社長は、レプリカントはあくまで製品であり、人間の奴隷である、という考え方を表明している。
しかも、誕生(製造?)したばかりの新型を、あっさり刺殺してしまっているし。
あのシーンを見ると、レプリカントには人権なんて与えられていなくて、ただの製品、モノ扱いされているように見えてしまう。

いったいどっちなの?
っていう辺り、これはもう、この映画の欠陥部分としか言いようがないですね。
法律に関する知見が、どうも製作陣にはまったくなかったようです。

あるいは、もっとうがった見方をして、日本における安保法制と解釈改憲のような感じで、レプリカントは人権があるような、ないような、日本の自衛隊は軍隊なような、軍隊じゃないような、戦力なのか、戦力じゃないのか、自衛のための戦力であって攻撃はしちゃいけないとか、なんだか意見が分かれててめんどうくさく曖昧なまま現実はどんどん進んで行く、というのとまったく同様に、どっちつかずでどっちでもあり、どっちでもない、という曖昧なまま、あの世界はどんどん進んでいっている、ということなのかもしれない(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、絶対にそんなところまでは考えていない(笑))。

でもそう考えると、ああ、そうか、と納得できる。
レプリカントと自衛隊は、同じようなものなんだ、と。


レプリカントは人間なのか、そうじゃないのか。
人権があるのか、ないのか。

恐らく、明確な見解は決定していないのだけれども(だから法律に明文規定もまだないのかもしれないけども)、ネクサス9型の中でも一部は、人間と同じような自由や権利が与えられていて、その条件があの変な「テスト」なのかもしれませんね。
ああいうテストに合格したレプリカントだけ、ある程度の(制限つきではあるけども)自由や権利を与えられて、普通の人間っぽい生活を送ることが許されているのかもしれない(もしかしたら、その旨を定める法律がすでにあるのかもしれない)。

だから、テストを受ける前の、誕生したばかり(製造されたばかり?)のレプリカントは、まだ何の権利も付与されていないので、ウォレス社長の一存でいきなり刺殺されてしまうのかもしれません。

それとも、ウォレス社長は、本当はやっちゃいけないレプリカント殺しを密かに(どうせバレやしません)、やってしまっていただけ、ということも考えられる。


まあ、いずれにしても、映画の中でその辺について言及されることはなかったし、今後もないでしょうから。
勝手にワタシが妄想しているだけです。

でも、こうして劇中に描かれてもいないようなことにまで突っ込んで妄想を拡大していける余地がある、というのもこの映画の面白いところですよね。

普通、他の映画では、これほどまでに妄想が広がる余地がそもそもありません。


だから、「曖昧過ぎる!」とか「描写が不足!」といったような批判は、まったく当たらない。
すべてを描き切らないで、曖昧模糊としたまま残しておく。
そして受け手側が、勝手に想像して妄想して、自分勝手に補っていく。
これが、本当に優れたいい映画だと思う。

同じことはゲームにも言える。


どんなクリエイターでも、三流ほどすべてを具体的に描きたがって、ダメですよね。
自分で全部、決めないと気が済まないというのか。
でも、全てがかっちりきっちりと決められた架空の世界なんて、お客の側からしたら面白くありません。
妄想する余地がなかったら、世界が広がらない。
小さな、スクリーンやテレビ画面、ゲームの液晶画面の中だけの世界で終わってしまう。


ワタシたちは(いやワタシだけかもしれないが)、スクリーンや液晶画面に映る世界の、もっと奥にさらに広い世界が、見えない世界が広がっているんだ……という妄想にふけるためにこそ、いろいろな架空のストーリーを味わうのです。


『ブレードランナー2049』は、そういう観点から見ると、もう100点満点中、300点くらいの大傑作だったな、と思います。
映像美もすごいし……あと、改めてサウンドの方も注意して聴いてみたんですが、なんとも緊迫感というか焦燥感をあおる効果音で、これも良かったですね。
サイバーな未来都市に通底する不安感を見事に表現していました。


100年に一度くらいの、超傑作SF映画だと思います。
唯一、アナ・ステリン博士の登場シーンが、二回目だと眠くなりました。
ああいう、引きこもり的なキャラが、自分的にはあまり好きでない(というか、嫌い)、というきわめて個人的な理由によるんだけども。


それはそうと、この映画、続編はあるんでしょうか。
個人的には、「ない」と思います。

なんか、単純に観ると、レプリカント解放戦線が蜂起してウォレスコーポレーションと戦争に突入してどうたらこたら、という続編がありそうな感じがしますが、それやっちゃうと、猛烈につまらないんじゃないか、と思うワケです。

だって、あのレプリカント解放戦線のフレイザさんって、言ってる話がどうもテロリストにしか見えない。
「大儀のために死ぬことこそ、本当に人間らしい」とかいうような意味のことを言っていましたが、それってテロリストの論理ですよね?

そもそもその「大儀」は正しいのか。
おそらく、あそこに集ったレプリカントたちは、その「大儀」のためなら、自分が死ぬことはもちろんのこと、敵対する人間を殺すこともまったくためらわずやってのけるでしょう。

あのまま突き進めば、確実にあのレプリカントたちは殺人集団と成り下がります。
それって……人類の側から見たら、ただのテロリスト、脅威でしかありませんよね。

こないだまで世界中を震撼させていたISIS(またはイスラム国)と何が違うのでしょうか。
ISISの連中だって、彼らは彼らなりに「自分たちこそ正義!」と思い込んでいるからこそ、平気で敵対している(と思い込んでいる)人を殺してしまえるワケです。


どうもそれが、正しい方向だとは思えないんですね。
だから、Kが最終的にはフレイザさんの言う通りにはせずに、デッカードを殺さなかったのは、良かったかもしれない。
Kには上でも述べたように、レプリカント解放戦線に加わる動機がそもそもないですからね。
「自由になりたいなら、私たちに加わって!」みたいにフレイザさんが言っていましたが……Kはそんな言うほど不自由な暮らしを強いられていた風でもないんです。


だからおそらく、続編があるとしても、レプリカント解放戦線の件については、映画の冒頭で1行くらいで「ネクサス8型のレプリカントが武装蜂起したが、鎮圧されて全滅させられた」とかあっさり片付けられて終わり、なんじゃないでしょうか。
そしてさらにその後を描いていく、という流れなら、続編もアリかな、と思いました。

ウォレス社長は、冷酷な面が強調されていましたが、それは彼が「レプリカントは製品であり、人間の道具にすぎない」という考えを強く持っているせいであって、人類を滅ぼそうとか、世界を暗黒支配してやろうとか、そういう分かりやすい悪役ってワケでも何でもなかった。
ウォレス社長の考えにしても、それが絶対的に間違っている、とは決めつけられないんです。
実際、レプリカントは「製造」されたものである以上は、人間が利用するための道具のひとつに過ぎない、という見方におかしな点は特に見当たらないんですね。

まあ、この映画が問いかけたかったのは、「人間の道具として製造されたハズのモノが、意思を持ち、人間に歯向かい出したらどうすんの?」というテーマなんでしょうけど。


そういうことって、今後、本当に起こり得るんでしょうか。
先日までは、「んなこと、あるワケねーだろ!」くらいに思ってましたが、今日、二回目を観てきたら、変わりましたね。
もしかしたら、現実にそういう問題に直面するときが、未来にはあるのかもしれない……などと考えるようになった。

絶対にない、などと誰が言い切れるというのでしょうか。
むしろ、十分にあり得ることなのかもしれない。

その時、人類は、その「モノ」に対して、どう対処するのか……


けっこう、難し気な問題ではあると思います。
でも、俺が生きているうちは、まだなさそうだな……


考えるの、やーめよ。



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※ネタバレ注意?ブレードランナー2049のストーリーに迫ってみる。

え~、昨日に引き続き、映画『ブレードランナー2049』について語りたいと思います。


昨日は、ストーリーは割とどうでもいい、とまで言い切って、あまりストーリーについては深く触れませんでした。
なので、まだ観ていない、という人に対しても、あまりネタバレにはならない内容だったかな、と思います。
(ただし、リンク先では思いっきりネタバレしまくっているので、注意が必要だった)


今日は少し、ストーリーにも関わる話をしたいな、と。
まあ、そうは言っても、ストーリーの核心、謎解きの答え的なことまでは、書くつもりがありません。
なぜなら、あまり重要ではないからです。


それはともかく。
どうもワタクシ、『ブレードランナー2049』中毒に罹患してしまったようで。
もう一回観たい!
って、ウズウズしてしまっています。

もう、一人でレイトショーとか観に行っちゃおうかな。
とにかく、あの映像美といいますか。
あの世界の光景、風景、情景、それを、また観たいなぁ、と。

う~ん、上映が終わる前に、ちょっと一人でもう一回だけ観に行こうかな。
あとは、ブルーレイが発売されるのを待つ。

そして、家でもまた観る。


ああいう、ストーリーがぼやっとしていてあまり盛り上がらない映画って、繰り返し何度も見返すのにはすごく向いているんですよ。
逆に、ストーリーに大どんでん返しがあって意外過ぎる映画って、一回観たら、ネタを知ってしまってもう二度と観る気にはならないですよね。
そうですね……世界遺産のDVDとかってありまして、ワタシも所有してますけど、ああいう、風景をただ眺めるだけの映像作品って、実は好きなんです。
今回のブレードランナー2049は、そういう、美しくて息をのむ風景をダラダラと眺めるのにすごくいい映画であることに加え、さらに一応(って言っちゃうと悪いかな)、ストーリーもおまけで付いてきますからね。


そのストーリーの方は、どうなんでしょうか。
クソつまらなくて、無価値なんでしょうか。

ワタシは、決してそうは思いません。
冗長にダラダラと風景を見せるだけのシーンが多くて、それが理解できない人にとってはイライラするだけで、ストーリーの方まで無価値なように見えてしまうかもしれませんが、そんなにヒドいわけでもない。


もちろんですね~、レプリカントのような、「造られしモノ」が己れのアイデンティティに悩む、的なテーマなんていうのは、もうずいぶんと昔から描かれてきたもので、べつに目新しくもないし、昨日リンクした、ボロクソに言っているブログの人が「同じアイデアの使い回しでしかないです」と酷評しているのは、いやはや、まさにその通り、としか言いようがない。

でも、別にこの映画のいいところは、そういうところにはないんです。


そうじゃないんですね。


ワタシが、個人的に(すご~く、あくまで個人的に)、心にず~んと響いたというか、しみじみと感じるところがあったシーンがですね。


※注:ここから、割とネタバレ的になっていきますので、まだ観ていなくて、これから観ようかな?と考えている人は、引き返した方が無難かと思います。


映画もずいぶんと終盤に差し掛かったあたり。
ホログラフ彼女の、ジョイをウォレス社長の手下、レプリカントのラヴさんに無情にもあっさりと破壊された後のK。
ボロボロになりながらも、LAの電脳都市を虚しくさまよう。

ふいに、巨大な電光掲示板(?)の中から、巨大な、しかも素っ裸のジョイちゃん(ただし、瞳がない)がホログラフで飛び出してきて、Kに話しかけてくる。
お疲れみたいね、みたいに。
そしてあまつさえ、Kを「ジョー」と呼ぶ。

でも、その全裸の巨大なジョイちゃんは、一通り一方的にしゃべり終えると、また電光掲示板の中に戻って行ってしまう。
なんのことはない、通行人に向けた、ただの広告宣伝でしかなかったワケです。
(このシーンは、よくCMでも断片的に流れている)


まだ、Kの個人所有だったジョイちゃんが生きて(?)いたときは、しきりにKに「あなたは特別な存在なのよ」と語りかけていた。
そしてKも、ちょっとその気になって、「もしかして俺様、特別な存在なのかなぁ?レイチェルが産んだ子どもなのかな?(ワクワク)」とか思っていた(でもそれを表情に出さないあたり、ライアン・ゴズリングの演技はやっぱりすごいですね)ワケです。
しかし、直前のシーンで、あっさりとレプリカント解放戦線(?)のリーダー、フレイザに思いっきり否定されて、全然特別でもなんでもないただのレプリカントに過ぎなかった、と知ってしまった。

その後の、あの、ただの広告宣伝に過ぎない、素っ裸のジョイちゃんの語り掛けですから。
あの巨大な、全裸のジョイちゃんにいくら「ジョー」とか呼ばれてみたところで、それは誰にでも同じことを言っているだけの、ただの機械的なCMに過ぎなくて。
自分は全然、特別でもなんでもない、そこら辺にいるただの凡人に過ぎなかったんだ……という、寂寞としたあの虚しさ。
それを、本当に劇中のKが感じていたのかどうか、それは明確には描かれませんけども、その後のKの行動をみる限り、恐らく間違ってはいないと推察されます。

でも、このときKが感じたであろう、自分は特別でもなんでもなく、ただの凡庸な、そこら辺にいくらでもいる一般人のうちの一人でしかないんだ、という寂寞とした虚しさ、っていうのは、ワタシたちただの一般人が、誰でも一度は感じるモノじゃないでしょうか?

ワタシたちは、子どもの頃は、他人の存在になんて思いを馳せることもなく、他人の感情とか、他人の意識とか、そんなようなものに考えを巡らすことなんて一切なく、この世に存在するのは自分ひとりで、自分こそは特別な、この世に唯一無二の存在で、あらゆるストーリーの主人公なんだ、くらいに思いあがっていたのではないでしょうか。

それがだんだん、中学生、高校生と成長していくにつれ、実はそうではない。
他の人も自分と同じような感情を持ち、意識を持ち、意思を持ち、それぞれが自分と同じように生きている他人なんだ、ということを認識していって、大学を卒業して社会人になる頃には、自分は別に何かのストーリーの主人公でも何でもなく、ただ大勢いる人たちの中の一人、凡庸で目立つこともなく、大きな成功を収めるワケでもなく、かといって重大な犯罪を犯すでもなく、ただ地味に平凡に日々を過ごすだけの、その他大勢のうちの一人でしかない……という事実を知っていく。
そして、大人になってゆく。

これって、Kが最初は「もしかして自分は特別な存在なのかも?」と思ったけども、実はそうじゃなかった、ただのレプリカントの一人に過ぎなかった、ということを知った後の茫漠とした虚しさと、まったく一緒なんじゃないか。


テレビで活躍しているような、アイドルとか芸能人とかだったら、自分は特別な存在なんだ、と思ったまま一生を終えることができるのかもしれないけども、ワタシたちただの凡庸な市井の人というのは、全然、特別でもなんでもない、いくらでも替えが利くどこにでもいるありふれた路傍の石でしかない。
その事実を受け入れてからの、大人としての、あまり面白くもない人生。
それが、圧倒的大多数の人の実感じゃないのか。
それを、あのKが代弁している。

そしてだからこそ、ある種の一部の人は、それでもなお特別な存在になりたい、という内なる欲求を抑えることができずに。
宗教とか、左翼思想だとか、そういうものに傾倒し、かぶれて、そういう活動に人生のすべてを捧げるようにまでなってしまう。
そうすれば、自分は正しい(と思い込んでいる)ことのために生きているんだ、自分は善で正義だ、特別な価値ある存在なんだ、と信じ込むことができて、「自分は凡庸で何ら特別ではなく、無価値である」という寂寞とした虚しさから逃れることができる。
(でも往々にして、その思い込みは間違っていて、実は正義でもなんでもない)

Kが、あの後、デッカードを連行するラヴを急襲して、ラヴを倒してデッカードを奪還し、そして本当の娘にひき会わせた、というくだりを、「正しいことをやり遂げて、本当に人間らしいことをした」と称賛する意見が散見されたけども。
でもそれって、フレイザがKに吹き込んだ、「大儀のために死ぬことこそ、本当に人間的なことなんだよ」という思想に、Kがかぶれて、自身の茫漠とした虚しさから逃れて、自身を価値あるものとしたいがために、とった行動でしかないとすれば。

本当に、Kのした行為は、正しかったのか?
という疑問が、頭をもたげて来ざるを得ない。

それは一見して、情緒的には正しく見える。
一般大衆は、ああいうセンチメンタルな情緒論に簡単に迎合して、称賛してしまう。

でも、それが本当に正しいのかどうかは、実は自明ではない。


映画の中では、一見していかにも悪役っぽく見えるウォレス社長。
彼が本当に悪人なのかどうか、は実はそう単純に決めつけられるものではない。
もしかしたら、彼の考えていることは、実は正しいのかもしれないのである。

宇宙開発時代、反乱など起こさず、忠実に人間の言うことを聞くレプリカントの存在、というウォレス社長の目指した理想は、実際にはあの世界に生きる人類にとっては本当に切実に必要としているモノなのかもしれないワケですよ。
人類の存続のために、あのラヴのように、主人のためなら人もためらいなく殺しますぜ?っていうくらい、主人に忠実なレプリカントっていうのは、実は必要なのかもしれない。
ウォレス社長は、本当は人類の存続を一番に考えている、最もヒューマニスティックな人なのかもしれないワケです。

それを阻止しようとしているレプリカント解放戦線のフレイザ女史は、もしかしたらただのテロリストに過ぎないのかもしれないワケですよ。

そんな、テロリストの思想に染まって、勝手な行動をとったKが、果たして本当に正しかったのかどうか?
っていうのは、そう簡単に決めつけることができない、意外に難しい問題をはらんでいる。


別に、ワタシはウォレス社長こそが善で、レプリカント解放戦線のフレイザが悪だ! などと決めて掛かるつもりはなくて。
ただ、そういう可能性もあるよね、ということを指摘しているに過ぎない。
あまりに一面的な、勧善懲悪ものではないよ、ということを言いたいだけで。

実際、この映画では、レプリカント解放戦線が戦いを起こす場面も描かれなかったし、ウォレス社長が打倒されることもないままに幕を閉じた。
これは別に、伏線を回収しないまま尻切れトンボに終わって、後は続編でどうにかしますよ、ということではなかったんじゃないか、と思うワケです。

最終決戦じみたものが何も描かれないまま終わったのは、やっぱり、どっちが正しいのかは、分からないから、なんじゃないかと思うんですね。

一般大衆の視点から見ると、一見して単純に、レプリカント解放戦線は弱者の立場に立った善の集団で、ウォレス社長はレプリカントを虐げる悪の親玉、みたいに見えてしまう。

でも、ワタシたちの住まう、現実の世界は、そんな分かりやすい善と悪に分かれてなんかいない。
現実の世界を、分かりやすい善と悪に二分して見ているのは、一部の左翼の人たちだけです。


この映画では、単純に善と悪を二分して、最終的に善が勝つ、というような描き方は一切、しなかった。
曖昧なままに終わらせた。

そこが、非常にリアリティありまくりで、すごく良かったところだと思いますね。


これが、レプリカント解放戦線が大規模な攻撃を仕掛けて、ウォレス社長を殺して終わり、みたいな単純なストーリーだったら、この映画は本当にただのクズでゴミな駄作で終わっていたことでしょう。


でも、そうはしなかった。
何が正しいのか?
については、明言しないままに終幕を迎えた。

左翼的な思想に染まってしまっている人には、Kが正しいことをやり遂げて、人間よりも人間的になった、良かった!みたいな結末に見えることでしょうけども。


ワタシは違いますね。


ワタシたちの多くは、地味で凡庸で全然特別な存在でもなく、日々をダラダラと過ごしているだけ。
そこに特別な意味を付与したくなって、宗教とか思想とかにかぶれて、何か特別な意味のある(っぽい)ことをしたくなる。
そして、過激な行動に走ってしまうことがある。
それが本当に正しいことなのかどうかは、誰にも分からないし、証明もされない……

という、厳然とした事実をあの映画が描き切っている、それを皮肉たっぷりに見せつけてくれている、というところに、深く感じ入るワケなんですね。

それがただの深読みにしか過ぎなくて、監督のドゥニ・ヴィルヌーヴ氏はそんなところまで全然、考えていなかったよ! というオチだったとしても。

少なくとも、ワタシ個人は、そこまで考えさせられるワケでして、それだけでも、あの映画を観た価値はあったというものです。
ま、そんなことは、ぶっちゃけどうでもいいことではあるんですがね。


毎度、酔っ払いながら書いているから、まとまりがなくて何が言いたいのか、イマイチ上手く伝えられていない気がするが、別にワタシは文章書いてそれで生活しているワケでもないし。
いたって、無責任極まりないワケです。


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テーマ : クラシック
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ブレードランナー2049は駄作なのか。

え~と、かなり久しぶりに、というかごく稀に、映画の話です。

『ブレードランナー2049』をこないだ観てきました。
ネット上では、さっそく賛否両論が巻き起こっているようですね。

大絶賛している意見↓(※注:かなりの長文)
【ネタバレ解説・考察】映画「ブレードランナー2049」:すべてを読む覚悟はあるか?


一方で、ボロクソにこき下ろしている意見(笑)↓
ブレードランナー2049は死ぬほどつまらない


正直、ボロクソに言ってる方が、読んで笑える(^-^;)

曰く、
「上映中、眠気とイライラと後悔の念しか沸いてこない、思い出すだけでも腸が煮えくりかえってくる作品です」
だそうである(笑)


まあ、このボロクソに言っている人の意見は、読むといちいち「もっとも、その通りです!」としか言いようがないのではあるけれども。

でもですね。
ワタクシ個人的には、この『ブレードランナー2049』という映画を、非常に面白く、楽しく、背筋をゾクゾクとさせて心底、シビれながら、時間を忘れて没入して観させていただいたんですね。
3時間近い上映時間でしたが、まったく退屈することなく、あっという間に過ぎてしまって、エンドロールが始まったときには、えっ?もう終わりなの?早すぎね?っていうか、もう3時間経過したの?気づかなかった!っていうくらい、夢中で観てました。

個人的には、どストライクというか、めちゃくちゃツボにハマったと言いますか。
ちょっと、自分的に好きな映画のかなり上位にランクインしそうな勢いで、気に入りましたね。

こういうの、かなり好きですよ。


上の、ボロクソに言っている人の意見、
「10分ほどで語り尽くせる中身のないストーリーを2時間43分もかけて、じっくり料理していく煮込みすぎのおでんみたいな代物」
「もったいぶってもったいぶって何も起こらないというシーンの繰り返し」
「やたらとワンシーンワンシーンに時間をかけてBGMで緊張感を煽るわりには結局それぞれのシーンに大したオチもメリハリもなく、すっきりしないんですよ」
などなど、うん、確かに。
その通り!

その通りなんです。
でも、違うんです。

この映画の良いところ、見どころ、観るべきところは、上記のようなところには、ないんですね。
もう、見方がまったく、異次元的に異なっている、と言うしかないです。


じゃあ、かく言うワタクシは、かの映画をどのように観たのか。
何が面白かったのか。

うまく伝えられるかどうか自信ないですが、頑張って書いてみようと思いますね。


まず、映画が始まって。
わずか数分後には、隣で妻が寝ているのが分かりました(笑)
まあ、無理もないかな、とは思いましたけども。
あの内容では、ね。


冒頭、レプリカントでありブレードランナーである主人公のKが、逃亡して身を隠している旧型レプリカントの一人、サッパー・モートンを始末しに来る場面。
のっけから、ダルい展開です。
どうも、この映画、ダラダラと、ストーリー展開とは無関係に、無意味に(見えるように)、単なる風景を映し出してみせるシーンが多い。
最初は、ワタシも、「う~んと、このシーンって、必要??」とちょっと疑問に思いつつ。
こういう、無意味(っぽい)シーンが多いから、3時間近くにまで長くなってしまったんじゃないの??
と、頭の中が「???」状態になったんです。
妻が隣で寝ているのも、無理もねぇーな、などと思いつつ。

でも、何か、ただ退屈なだけでは終わらない何かが感じられて、自分は眠くはならなくて、観つづけていた。

サッパーが養殖していたのは、何やら気持ち悪い虫の幼虫みたいなモノ。
そしたら、それ、たんぱく質だって言うじゃないですか。
つまり、食料、ってことですよね。
あの世界の人たちは、食糧難に陥って、ああして気持ち悪い虫をたんぱく源として、あの気色悪い幼虫を加工したものを食べ物として食べている、っていうことが、あの冒頭のちょっとしたシーンから、容易に想像がつく。

おげぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーー!
イヤすぎる未来だ。


そんな気色悪い想像を掻き立てるだけで、あの冒頭のシーンには、意味がある。
そう、あの世界の背景を観る者に知らしめることができるのである。

このブレードランナー2049の未来世界ってヤツは、こんな気色悪い、ダークな世界なんだぜ?っていうことを、ちょっとしたシーンひとつで想像させる。
いや、あれはかなりのものだな、と思いましたよ。
逆に言うと、あのシーンひとつでそこまで一瞬にして想像しないと、楽しめないのかな、と。

そして、なんかやたらと、無駄に、無意味に(っぽく)風景をダラダラと映し出すシーンがあちこちに多い点について。
初めは、なんだろう、この無駄なシーンは?
って思ったんですが、すぐに気が付きました。
あ、違う。
これは、無駄なシーンじゃない。
これを見るのが、この映画の一番の、主たる目的なんだ!
と、ピーン!と来たんです。

だって、映像が綺麗すぎるじゃないですか。
ああ、この映像美に見惚れることこそが、この映画の最大の楽しみ方なんだ……と、冒頭のサッパー始末の場面を過ぎて次のシーンに移るくらいから、気が付いた。

そこからは、もう夢中で、むさぼるように映像に釘付けでしたね。

あの映画は、いわば、新たに創造されたブレードランナーの世界を、圧倒的な映像美で、観光して回る、その風景を、景色を観て、その美しさに感動する、それが一番の見どころなんだ!
と。そのように思ったんです。

ストーリーは、実はそのあちらこちらに広がる景色を見せて回るための、ガイド役に過ぎなかったんです。


でも、世の中の常識といいますか、一般的な映画愛好家は、映画といえば「ストーリー」を観ていますよね。
ストーリーこそが映画の本質で、ビジュアルはそのおまけ的要素にすぎない。

でも、この『ブレードランナー2049』では、完全に逆転しています。
ビジュアルが主役。
ストーリーはおまけ的な添え物でしかない。

そこを割り切って(見抜いて?)観ることができるか否か?
という点に、この映画を楽しめるか否か?が掛かっているのではないか。

ワタシは、この際はっきり言いますが、かなりの変人です。
映画を観るとき、ストーリーはまったく重視していません

その世界観、その中で描かれる世界がどんな世界なのか?を一番、観ている。
そして、その世界の中に自分も入り込んで、日常とは全然異なる、別世界を観光して楽しんでいる、そういう見方をしている。

だから、ストーリー的に全然、盛り上がらない、ダラダラした描写の映画が、実は好きだったりする。
スターウォーズシリーズの中でも、とりわけ評価が低いらしいエピソードⅡっていうのがありますが、ワタシは、あの作品、実はすごく好きなんですよ。
なぜかって、あまり盛り上がらず、ダラダラとオビワンやアナキンの日常が描かれていくだけで、起承転結があまりなく、感銘を受ける場面もない。
こう書くと、なんかけなしているようにしか読めませんが、違います。
それが、いいんです。
だって、ワタシたちの日常生活って、別に起承転結もなく感銘を受ける出来事もなく、ただ毎日ダラダラと過ぎていくだけじゃないですか。
映画の中でも、架空の世界の住人たちが、ダラダラと日常をただ過ごしているだけの描写の方が、「その世界」をリアルに感じることができて、自分の妄想の中で、その世界に入り込んで、その世界のことを深く知ることができるような感じがするんです。
変にストーリーが盛り上がって起承転結があると、逆に作り話っぽくてリアリティがなくて、しらけてしまうんですよ。

だから、『ブレードランナー2049』のようにダラダラと風景を映し出してくれた方が、その「世界」をより身近に、深く感じ取ることができる。
自分もあの世界の住人だったら、どんな暮らしをしているだろう?という妄想をふくらませてくれる。

ちょっと映画館で一回観てきただけで、記憶に頼るしかなので確かなことは書けないのだけれども。
Kの家にいる、ジョイっていう名前の、ホログラフでしかない彼女がいましたよね。
あの、激烈に可愛らしい女の子。

あれ、いいですね。
ワタシもあの世界の住人だったら、Kのような命を張った冒険なんかしないでしょうけど、平凡に地味に暮らしながら、ああいうバーチャルな彼女を家に住まわせて、オタクのような生活を送るのかもしれないなぁ……などと妄想を膨らませたりした。
こういう、映画の中からさらに自分で勝手に世界を膨らませていく、そういう楽しみ方が、この映画の本当の楽しみ方のひとつでもありますね。


それから、何といってもあの世界の、いろいろな風景ですよ。
ロサンゼルスでしたっけ。
きらびやかな電脳都市の華やかさは言うに及ばず。

Kが訪れる孤児院があるところ(どこだっけ?)の、スクラップばかりに埋め尽くされた荒廃しきった風景。
孤児院と隣接してるんだか、またはつながった同じ建物なのか、廃工場の内部の様子。

廃墟好きのワタシには、それだけでたまらく背筋がゾクゾクする、ワクワクものの風景です。
もうストーリーなんてどうでもよくなって、その情景をくいいるように見つめることに夢中でした。

そして、年老いたデッカードが隠れ潜んでいたラスベガスの廃墟。
あれもすごかったぁ……

あそこでも、ストーリーを進めずに、無駄に風景をダラダラと長々と映し出していた。
ストーリーにしか興味のない人は、あそこでもイライラ絶頂に達していたことでしょう(笑)
でもワタシは真逆。
じっくりと、その廃墟美に見惚れさせていただきました。
これでもか、としつこく映し出される風景に、見とれるのが正しい見方ですね、明らかに。
ストーリーなんて、進まなくてもいいんです、別に。
あの、現実世界では決して見ることができない、ものすごい風景、景色をまざまざと見せてくれることが、心震えるのです。

そして、Kとデッカードが会いまみえたシーン。

上記の、ボロクソに文句垂れている人の意見では、「Kとデッカードの格闘シーン、あれ必要? 二人が殴り合う理由がないし、あれだけ殴った後で仲直りして、酒でも飲もうかみたいな展開が信じられませんね」なんて言っちゃってますが、まったくその通り。
二人が喧嘩する意味なんて、最初から、これっぽっちも、微塵もありゃあしません。
あのシーンの意味は、そこにはないんです。
あの場面の本当の見どころは、背景でホログラフのエルビス・プレスリー(あとマリリン・モンローとかも映ったような?)が歌う映像が流れる、しかも廃墟だから、ときどき止まったり、乱れたりしながら……っていう、あのノスタルジックで終末感漂う感じが、とてつもなく趣深いんであって。
二人の喧嘩なんて、ただの添え物、おまけでしかありません。
あのシーンの主役は、確実にホログラフのエルビスです。

あの、壊れて乱れるホログラフ映像が、なんともいえない郷愁というか、ノスタルジーを感じさせて、しみじみ、しんみりとさせてくれるんじゃありませんか。
かつては、乱れることもなく完璧に再生されていたのであろうホログラフ映像が、今は廃墟と化したこの場所で、乱れて壊れながらも今でも映し出されている。
それをバックに、殴りあう二人。

いいじゃないですか。
心の奥底に、ずーん、と来る感銘がありますよ!
それはストーリーからくるものじゃない。
もっと、こう、わびさびとでも言いますか。
もう、言葉でああだよこうだよ、と説明できる世界じゃありませんね。
趣深い、もののあわれ、としか、言いようがないです。
あのシーンは、世界映画史上でも、屈指の名場面だと、自分的には思いますね。
あんなにもノスタルジックで物悲しくて美しい映像世界は、今までになかったと思うよ。

涙出てくるくらい。


ホントに、すごい映画だったなぁ、と思う。
ブルーレイで発売されたら、絶対に買ってもう一度観返したい。
あの美しすぎる映像世界を、またじっくりと見直したい。

何度も言いますが、ストーリーなんて、割とどうでもいいんです。
ワタシは、ただ『ブレードランナー2049』の世界を「観光」したいだけ。

だって、考えてもみてください。
ワタシたちの現実の世界に、レプリカントなんていう存在は実際にはまだいないんです(これからも、恐らく存在しえないと思う)。
あくまで架空の存在でしかないんですから、レプリカントと人間の違いはどうたらこうたらとか、その境界線がどうしたこうした、なんていうことをいくら考察してみたところで、何の意味もありゃしません

哲学的に、ポストモダニズムがどうしたとか、新実在論がどうたらこうたら、みたいな論考はですね、正直に申しまして、何を言っているのかまったくわからない
まあ、単純に、ワタシの知性が足りない、ということでもあるのですが、いや、それよりも何よりも、そういう哲学的な論考って、何か意味あんの?
ってのが正直なところで。
ぶっちゃけ、何も明らかにできないし、何も論証できてないし、なんの意味もないんじゃないの、ってのが正直なところですね。
たぶん、この世界で一番、間違って袋小路に迷い込んでいるのが哲学者と称する人種ですね。

だから、そのような哲学的な思想をこの映画に読み込もうとするのは、おそらく間違いだと思う。
だって、しょせんはただの映画でしかないのだし。
エンターテインメントでなければならないハズでしょ。

要は、楽しみ方の方向性というか質というか。
「俺は、この映画をこういう風に楽しみましたぜ?」
というのを、ここでは示したかった。

実際、とても楽しく、面白く観させていただきましたので。


例えるならば、この『ブレードランナー2049』という映画は、アレですね。
仮面ライダースナックですね。

仮面ライダースナック。
本来であれば、メインはお菓子の方であるハズが。
おまけ、付録である仮面ライダーカードの方が主役になってしまって、仮面ライダースナックを買ったはいいが、カードだけ取って菓子は捨てる、という社会現象が生じた。

あれと同様で、本来は映画の本質であったであろうストーリー(菓子)の方が脇へ追いやられ、おまけ的要素だったハズの映像、ビジュアルが、仮面ライダーカードのように主役に躍り出た。
それが、この『ブレードランナー2049』という謎めいた映画の正体なのではないか。


そうしてみると、この映画は、映画というものの存在価値を、これまでとは180度、それこそコペルニクス的に転回した、画期的に未来的な作品だった、と言えるのかもしれない。


……まあ、一般受けしないのは、当たり前だろうな。
商業的には、明らかに失敗ですね。
でも、バッハの音楽だって、当時は時代遅れとみなされて、一般には誰も見向きもしなかったんですよね。
ただ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスその他といった作曲家たちは、バッハの音楽を研究して、そこから影響を受け、多くを学び取っていた。

それが時代を経て、復活して今や音楽の父ですからね。
この『ブレードランナー2049』という怪作が、いずれ時代を経て大絶賛される日が、遠い未来には来るかもしれない……
少なくともワタシは、すごく気に入ったし好きな映画のひとつです。

ブルーレイ、絶対買うぞ……


テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

映画『チャーリー・モルデカイ~華麗なる名画の秘密~』

今日は、遠方でのお葬式に参列して来た。
なので、練習は少な目に。
ヴァイオリン―バッハ無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番の第4楽章を少々、メンデルスゾーンのコンチェルトの1ページ目を少々。
ヴィオラ―テレマンの協奏曲の第1・第2楽章、バッハ無伴奏チェロ組曲第1番プレリュード。
プレリュードのみ、3回くらい繰り返して練習した。
以外と、難しい曲だから。
ヴィオラの場合、1の指と2の指(人差し指と中指)は、ヴァイオリンのときより隙間を空けると音程が正確に取れることが分かった。
今まで、ヴァイオリンのようにくっつけていたので、どうも音程がキマらないなぁ、と思っていたんだ……


それはそうと、昨日観てきた映画、『チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密』であるが。
(※注:ストーリーに関するネタバレはありません)

別に観たくて観に行ったワケでもなく、妻の友人が突然のお通夜で(今日のお葬式とはまた別物)行けなくなったため、代わりに行っただけで。
何の前知識も先入観もなく、観た。

どうだったか。


まあ、ものすごく面白いとは言えないけども、だからといってくそつまんないワケでもない、そこそこ面白かった、という感じだった。
☆5つで評価するならば、☆3つくらいかなぁ。

☆☆☆


ただ、レイトショーとはいえ、観客があまりにも少なかった。
ぼくと妻を含めても、全3組、総勢6名しか、いなかった……
まだ封切して間もないというのに。

でもまあ、あの内容じゃ、仕方ないか。

まず、ギャグが古すぎる。
観てて、「昭和のギャグだな~」というのが満載。
ドリフのコントか!? と内心思いながら観ていた。

下ネタとか、お下劣なネタが多すぎるのも、この平成日本でウケない理由の一つかも。

とはいえ、ぼくも妻も割と古い人間なので、それなりに笑えたしストーリーとか演出も面白かったよ。

妻は、ピンクパンサーみたいだ、と言っていた……
ぼくはピンクパンサーはよく知らないんですよ。


結局、この平成日本ていうのは、これまでにあまりにも多くの漫画やらアニメやら、小説やらラノベやら、映画やらドラマやら、あとゲームやら、エンタメ作品がたくさん無数に作られ過ぎて、競争が激化して、内容が高度化・複雑化した上に、受け手側の観客・消費者たちも、舌が肥えてしまっているというか、ちょっとやそっとでは満足しないし笑えない、という具合になってしまっている。


だから、今さら「昭和ギャグ」を多数、次々に繰り出しても、ウケないのかなぁ、と。
どうせ今ごろ、ネット上ではボロクソに言われているんだろうな……


でもまあ、昭和のギャグとか、お下劣ネタとか、ドリフのコントとか、今でもそういうの好きだよ~って向きには、楽しめるかもしれない。

平成の高度化したコンテンツしか受け付けない、という人は、強烈な拒絶反応を示して終わるだろうな。


平成を代表するコンテンツといえば、『妖怪ウォッチ』だろう。
ストーリー性がなく、オチもなく、ひたすらシュールで意味不明なところが、かなり笑える。
あれこそが、平成の笑いってモノだろう。

妻とかは、まったく理解できない世界らしい。

俺は、どっちも笑えるけどね。
昭和のギャグも、平成の笑いも。


割と、エンタメ作品に対する評価は甘めな方だしね。
俺は。

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プロフィール

ばっかバッハ

Author:ばっかバッハ
ヴァイオリンを習い始めたのは16歳くらい。
それから30年以上の歳月が流れ…今ではアラフィフ。
年齢とともに楽器を弾くのが辛くなってきたので、ゲームで遊ぶことも。

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